ふと、「いのちの使い方」を読もうと思って手に取りました。
それを見た相方から「昨日、日野原さん亡くなったよね。」と言われました。
まったく知りませんでしたが、「なるほど。」という感じでした。
私にとっては時々あることなので、必然なのだと思います。
インターネットもするし、外出もするため、意識的にでは無く、無意識的に情報が入ってきているのかなと。
ただ、それをキャッチアップして行動に移しやすい私がいる。
そんな感じです。
最近、心も体もなかなかの調子の悪さ。
普通に振る舞っているつもりだけれど、たぶん、グチャグチャ。
低空飛行を続けているのでそろそろ上げていかないといけませぬ。
さらに、先週は、一番下の子がもらってきた胃腸炎に家族全員が感染し、ボロボロ。
連休は天気の良い中、TVやアニメを見ることぐらいしかできることが無く、変な情報を入れすぎてモヤモヤ。
たぶん、この辺が底辺になるので、あとは、時間をかけてゆっくり上がっていくと思います。
その足がかりとして、待ち時間が多い1日があったため「いのちの使い方」を読み返しました。
やはり、響くところは、
・子供はすべて自分のために生きる。大人は誰かのために生きる。
という内容。思うところは、
仕事の意味は分業であったり、誰かの役に立つことなのですが、私生活でも出来ているかというところ。
社会システム的に助け合うことが自動的に(無意識的に)できるようになったことで、自由な時間が増えています。
その時間をどう使うか、そんなところです。
自由な時間が増えて、何でもできるのだけれど、何をするのかが重要かなと。
生存競争の意味でどんな事も利己となる事は分かるのだけれど、ネットにより利己的な行動が拡散し一部が協調できるようになり、ちょっと苦手。
意識を無駄に使ってしまっています。
この辺りの情報の入れすぎで行動不能になり、時間が余るため、さらに入力過多になっている私。
ちょっと整理が必要。
また、
・死というものがあるから、生というものがある
ということ。
もっと早くから学ぶ必要があったと、今更思う。
簡単なことでは無いのですが、「自分は絶対に死ぬ」という単純なこと。
だから、「どう生きるか」が重要であり、死ぬまでに使えるモノは「時間」であるということ。
つまり「時間」を言い換えると、「いのち」であること。
・医師のように、誰かの命を一時的に(必ず死ぬため)救う「いのちの使い方」
・農家のように、自然を感じ、糧となる食料を作る「いのちの使い方」
・教師、広告業、建築、物書き、不動産・・・
仕事も私事も色々ある。
・釣りをしてもいいし、絵を描いてもいいし、動画を見てもいいし、漫画を読んでもいいし、サーフィンをしてもいいし、酒を飲んでもいいし、海を眺めてもいい。
こんな状態で、上手く子供に伝えられるか分かりませんが、もう少し頑張れと自分に思う。
まずは、終わらせることから片付けて、やることを減らす事から始めていこうと思います。
いのちを大切にしましょうね。
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