子供が保育園で風邪をもらって、よく休む。
電話で聞き間違いもするし、計算ミスや数え間違えの日々、当然パソコンは使えません。
指示した手順で作業をしてくれないので、皆でやり直す。
話を聞くと、職歴も無く、学歴も無い。
パートさんとはいえ、そんな人が多い職場。
仕事が出来ない人が同じチームにいれば、当然、自分の時間が取られます。
忙しいから、人が必要なのに、人件費が無駄。
会社は負債を抱えて毎年赤字。
私の会社は、以前そんな感じでした。
「募集していても、仕事が出来る人が来ないのかな。」
そんな風に思っていました。
でも、違ったのです。
上の人の体調不良で、新入社員の私が選考に立ち会いました。
すると、
乳児のいるシングルマザーで、学歴・職歴なし
一番、採用してはいけなさそうな人を採用すると上司が言いました。
「もっと、仕事の出来る人を採用してください。」
理解できず、当然、怒りました。
「言いたいことは良くわかる。
でも、この人を採用してくれる会社はあると思うか?
たぶん、無いだろう。
たくさん面接に落ちたと言っていた。
だから、うちが採用するんだよ。」
言葉数の少ない上司でしたから、もっと短い表現だったと思います。
そんな感じで採用されたので、パートさんは頑張っていました。
頑張りますが、予想通り、仕事は全く出来ません。
私の仕事量は増えました。
自分の仕事の効率を上げる努力をしたので、私の実力は上がりました。
そして、数年働くうちにパートさんの実力も上がりました。
当然、チームワークは最高でした。
その時、自分を恥じ、猛省したのですが、上司が諸事情で会社を去り、すっかり、忘れていました。
困っている人を助けるのは当たり前だろう。
と言えばそうなのかもしれません。
でも、それは中々できることでは無い。
自分の仕事が重要であり、自分は忙しいという世界観にいれば、仕事が出来ない人は邪魔なだけです。
即戦力。みんな好きな言葉です。
そもそも、自分がやっている仕事は本当に重要なのでしょうか?
貧困の話題になったとき、社会が悪いと言い、お金をあげろと言う。
必要なことは、お金をあげることでは無く、お金を稼げるように育ててあげることです。
さらに、自分がやるのでは無く、誰かに(社会に)やれという。
自分が何をしているかと言えば、搾取側の立場で日々遊び、貢献しようと行動しない。
違う方面で社会に貢献しているのは、当たり前。
社会に貢献しているから、淘汰されずに生きているのです。
自分の目の間に変えたい現実が現れたとき、自分がどう対応するか。
誰かにやれといっても、変わらない。
「誰かを助けて欲しい」
と言うことは
「誰かを助けたいという、自分の欲求を満たしたい」
だけなので
「自分を助けて欲しい」
のです。
苦しむ人が少ない社会を形成しようとしたとき、その社会に適応できている人が頑張るのは当然です。
ギブミーチョコレートがギブミーマネーになり、最近は、ギブミータイムになっている。
簡単には死なない豊かさを得ても、喉が渇き続けているのです。
社会に生かされていることを理解せず、搾取側にたち、もっと楽をさせろと言う人に疑問を持つのです。
そして、私は今も、かつての上司を尊敬しています。
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